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備忘録 0801 終わらない絶望の果てに

我々は70年代に火の七日間を通過した

前回、「宮崎駿にさようなら」と書いたんですが、要するに70年代というのはヘドロや毒気のある空気の中でひっそりと暮らさないといけなかった上に経済的にも富国的にも息の抜けない状態で、今よりも安心とはほど遠い時代だったんだと思うんです。
その耐えがたいドロドロさを火の七日間という70年代に流行っていた世界最終戦争ネタに全て閉じ込めて、世界は人間の意志などはお構いなしに常時再構築され続けているのだと、いまのデッドエンドな現代社会にも終わりはやってくるのだとある種の救いを設けているわけです(でも、自分たちでやるんじゃねぇと庵野秀明がアンサーしていますがね)

70年代は世界が終わる、世界が終わるという妄想に世界中(といっても実は日本国内かもしんない、セカイという表現の方が適切かも知れない)がとらわれていて、そのとらわれがセカイの風景の変更、つまりニュータウンに代表される平成に繋がる住宅環境に影響を与え、終末思想には曖昧に回答しないままにバブルな80年代へ突入したわけです、ドロドロさをいとも簡単に払拭しながら(この物語を今追っかけているのですがなかなかに資料がない…)。

宮崎さんのパーソナリティというのは、高度成長期の立役者に共通する「技術に対する大いなるリスペクト」とみんなも感じてるであろう「下の世代にどうしても伝えたい教育的姿勢」(ロリコンという説もありますが、性的というよりは教育的に大物になりたいの気持が高いんじゃないかな)の二つに集約されていて、ジブリ名義の作品はナウシカから風立ちぬに至るまで、全てその欲望にそってすべてスクリプトが書かれているわけです。
80年代はノストラダムスの予言ネタというか1999年に全てが終わるという妄想から生まれた世界崩壊ものが娯楽の世界を謁見しましたが、崩壊した世界後の世界観としてナウシカの世界は70年代から80年代への移りかわりをかなりうまくまとめられていると思います。
正直、現代社会にフイットするために綺麗な綺麗な嘘を書いている朝ドラよりも忠実なくらい(あれはアレで楽しめるところはあるんですが、やっぱり綺麗事だよなあ)。

このヘドロさを払拭し、そのお駄賃として与えられたバブル消費社会に浮かれていたのですが、60年代に子供時代を過ごしメディアの中で思春期を迎えたオタク世代にはその辺の事情は理解できないと思います。
なぜなら、この時代の子供というのは教育から表現の域を広げようとするアニメカルチャー・特撮カルチャー・漫画カルチャー、サブカルチャーという竜宮城にみんな閉じこもっていたからです。
竜宮城の時間は楽しくて永遠にいたい気分に浸ることができるのですが、それだけに毒性も強い側面があります。
それは、物語の最後と現在の環境を合わせてみれば容易に想像がつくでしょう、気づいたら非コミュの爺さんになっていましたというオチですよ、アレ。

1999年の終末思想から今年で20年が経とうとしていて、いまや世界の終わりなんてのは歌手の名前かよ!という時代になってしまい、終わらない絶望の方が辛くなってくる昨夕、「風の谷のナウシカ」を再読したいなと思います。
ここに、未来への全てが詰まっている。

時々思うんですが

こんなの書いてなんかいいことあるのか?と思う時があります。
仕事はすべて遊びだとおっしゃるかた結構いらっしゃいますが、じゃ遊びでどうやって稼いでるんだよう、と思いっきり叫びたいです。

今日のキーワード

  • 今月はサボりつつなんとか過ごそうとかと思います、簡単に死ぬことを諦めた
  • そういえば、愛読書「顔のない神々」もヘドロで一杯の終末思想の話でしたね、こんな所に人生の伏線回収
  • I shall return
  • でも前回のような不安だけの精神状態にはなりたくないなあ、強くなりたい。

てなわけで、続く。